「……いいだろう。その誓約、受けて立つ」
国を奪われた神は、消滅するのがこの世界の理。けれど那沙は名を奪われただけだし、国に暮らす民に危害を与えられたわけでもない。那沙の直感が、この少年はよき統治者であろうことを認めている。ならば、いまだけ彼にこのセイレーンを任せてもいいのでは?
――オリヴィエは悔しがるかもしれない。けれど、いまのあたしがひとりでかの国に立ち向かうことは無謀だもの。
土地神となるとは、すなわちこの迎果七島に封じられるということ。国造りの
――あの子なら、彼女を救えるかもしれない。けれど、リョーメイたちを巻き込んでまでいま動くのは危険だ……
黙って考え込んでしまった那沙を興味深そうに見つめていた少年は、ぽつりと呟く。
「ならば我は那沙を産み落としたかの海に誓おう。誓蓮王朝の崩壊を最低限に、民草の生活に変化を与えぬことを……だが」
凪いだ海のように淡々とした少年の声が玲瓏と響く。那沙はハッとして顔をあげる。
「我もまた、愚王の息子であることに変わりはない。そなたが秘しておる珊瑚蓮(さんごはす)の精霊を近いうちにいただくことになろうぞ」
「な……!」那沙は勝ち誇ったように笑う少年王の前で、顔を真っ赤に染める。
「央浬絵どのの娘を、我が妃に」
「……知っていたの?」 「父王は騙せても、おれは騙せぬぞ、海神(わだつみ)に忘れ去られた末娘よ」自分に投げかけられた侮辱にも等しい俗称に眉をひそめながら、那沙は反論する。
「でも、あの子は十二歳になったばかり。初潮もまだなのに結婚だなんて早すぎる」
「すぐにではない。最低でも五年は待ってやる。そうだな……おれが数えで十八歳になったら、その娘を迎えに行こう」一方的な宣言に那沙は顔を顰めるものの、彼の五年という月日に一縷の望みを見つける。
「わかったわ」
「それまでにおれは内乱を鎮め、誓蓮王朝最後の姫を娶る準備をすすめることにする。そなたにとってみれば、猶予にすらならぬ短い時間かもしれないがな」神とひととでは時間の感じ方が異なるのだからなと少年は苦笑いをしながら、那沙に挑むように言葉を発する。
「おれを殺したければ殺しに来い。だが、土地神となったそなたはもう、動けまい?」
「あんたを殺しても、オリヴィエは戻ってこないわ。むしろ、あんたがあの子と無事に身も心も結ばれて至高神に認められ、その恩赦でセイレーンに彼女を返してくれる方が、あたしとしてはありがたいわね」可能性を口にして余裕が生まれたのか、那沙はふふふと幼女には見合わない妖艶な微笑を浮かべる。
「でも、あんたに彼女は扱えないよ」
「扱う? まるで道具のような言い方をするんだな」はじめて、少年の瞳に怒りが垣間見えた。那沙はその感情の動きに首を傾げる。
「あの子には強大な『海』のちからが備わっているの。彼女を怒らせたら、嵐が起こり、国が沈むわ」
「……ああ、そういう意味か」 「それでも構わないのなら、あたしはその話を受け入れるわ。ただ、オリヴィエは反対するでしょうね」 「なぜだ? 両国の関係を悪化させることはないだろう?」セイレーン王朝は那沙が土地神に降格したことで滅び、かの国の領土となった。もともと争いごとを嫌う温厚なセイレーンに生きる民草にとってみれば、安心して暮らせれば侵略を受けようがどこの国に名が変わろうが問題ないだろう……たったひとり、この島国を統治していた女王をのぞいて。
彼女は機会があれば、自分の手を血に染めてでも国を取り戻そうとする。国に危機が訪れたら、捨て身の覚悟で暴走する。それだけのちからを持っていたから、セイレーンはちいさいながらも繁栄していたのだ。――王朝に君臨する孤高の女王。
那沙はそれゆえ遠ざけられた娘を想い浮かべ、瞳を伏せる。
「オリヴィエは、あの子を殺したいほど憎んでいるから」
それでも那沙は意趣返しとばかりにさらりと口にする。その言葉に込められた真意には、さすがに賢しい少年ですら、理解できなかったのだろう、不快そうに口をひらく。
「親子だろう?」
「母娘(おやこ)はときに恋敵同士になるわ」あんたにはわからないでしょうけど、と呟いて、那沙は背を向ける。これ以上の話は無駄だと手をあげ、海へと身体を沈めていく。
「おい?」
「九十九代。五年。待ってやるわ。女王が壊そうとしている珊瑚蓮の精霊を手に入れる覚悟があるのなら……せいぜいその手で慈しむのね」「!」 咄嗟に前へ飛び出す九十九を弾き飛ばすかのように、カイジールがさらりと空中に魔術陣を描くが、すでにひかりは巨木の根に囚われた道花の眉間を通過し、消え去っている。「……なに、いまの?」 痛くも痒くもない感覚に、道花が首を傾げる。だが、那沙は顔を青白くしている。「珊瑚蓮の精霊に闇鬼を潜入させました。絶望の黒花を咲かせるためにはやはり本人の精神を病ませるのが一番でしょうから」「なんですって!」「威勢がいいね。いまのうちに吠えているがいいよ。自分の体内に潜まれたものを神謡で浄化することはできないんだから」 いっそのこと仙哉義兄さまのように幽鬼にしちゃおうか、と笑顔になる玉登をいまにも射殺しそうな視線で九十九が睨みつける。「玉登」「ぼくたちはすべてを壊すよ。義兄上が大切にしているこの国も、誓蓮も、世界も、愛する珊瑚蓮の精霊も。ぜんぶぜんぶ破壊する。最後に義兄上を殺してあげるから、楽しみにしていてね」 朗らかに言い残して、玉登は手を掲げる。一度は動きを止めた巨木がずずずと動き出し、天高くまで成長していく。「きゃ……!」 根の檻に捕えられたままの道花もそのまま空へ向かって突きあげられていく。みるみるうちに九十九たちの姿が米粒のように小さくなる。「道花!」 自分の名を呼ぶ悲痛な声も、だんだん遠ざかっていく。空気が薄くなっていく錯覚に道花は立っていられなくなりその場へしゃがみこむ。足元から見えるのは栄華を誇る帝都と皇一族の広大な敷地にある建物の屋根。帝都のひとびとは宮廷で起きたこの騒動をまだ何も知らないで平穏な暮らしを続けている。少年王がついに結婚すると晴れやかな気分で市は開かれているに違いない。結界が張られていることで起こるこの落差を空から見下ろし、道花は愕然とする。「……そんな」「珊瑚蓮の精霊。貴女は快楽に溺れながらしばらく高みの見物をしていてください。この帝都の情景が、ぼくと鬼神の手によって生まれ変わるところ
「そうはさせないよ」 割り込んできた中性的な声に、周囲が顔を見合わせる。声の主が誰なのかに気づいた道花は思わず名を呼んでいた。「慈流! 無事だったのね」「道花。すまない。ようやく決心がついたよ」 至高神によって助けられたカイジールは真っ先に桃花桜宮へ戻り、道花と九十九、そして那沙の姿を確認し、あははと笑う。「カイジール! あんた……まさか」 那沙は彼の変化に気づき、顔色を変える。そのまさかだよとカイジールは胸を張る。西洋服を着たままの彼の胸元がぷるんと揺れた。すらりとしていた体躯には、ふくよかな曲線が生まれ、今まで以上に妖艶な雰囲気を纏わせている。「慈流、あなたまさか女になったの?」 道花が声を荒げ、それに追従するように那沙も溜め息をつく。 男として今後の人生を過ごすことを選んだ彼の身体が――完全に女性化している。「そう、そのまさかだよ。女王陛下に捕まったボクを助けてくれた至高神がおっしゃったのさ。道花、君と女王陛下のどちらをも救いたいのなら、ボクが女になって五代目オリヴィエを襲名すればいいだけのことだ、って」 かつて自分の運命が珊瑚蓮に決められているのを厭った人魚の女王が自分の娘にオリヴィエの名を与え、生き延びたという伝承がある。至高神は那沙ですら知らされなかった人魚の一族のごく一部のものにしか伝えられていなかった真実を当り前のように説明し、カイジールにその役を押し付けたのだ。 たしかに、一度は膨らみかけた珊瑚蓮の蕾が枯れ、かわりに繁栄を促すかのように葉が生い茂り海を覆い尽くしたことがある。あれは、先の女王オリヴィエが後継を定めて生き延びたから起きた現象だったのかと今更のように那沙は息をつく。至高神に珊瑚蓮の花が咲くとオリヴィエが死ぬと告げられるまで、女王と珊瑚蓮の関係を把握することができずにいた自分の至らなさに嫌気がさす。「至高神がそう考えたのなら、あながち悪い方法ではないのかもね」 那沙が溜め息混じりにカイジールに応えれば、かつて男性だった彼女もまた、苦笑を浮かべる。
害意のない微笑を湛えたまま、玉登は巨木の根に阻まれ必死になって逃げようとする道花の三つあみを掴み、結紐を歯で千切り取っていた。「駄目っ!」 蜂蜜色の直毛がばさりと落ち、道花の身体がビクリと跳ねる。「人魚の女王と天神の末裔から生まれた稀有なる珊瑚蓮の精霊……貴女は幼い三つあみよりもこうしている方が美しいですよ」 道花が気にしているのを知っていて、彼女の直毛を褒め称える姿に那沙が激昂し、九十九に詰め寄る。「なんなのこの男の子は!」「第七皇子、皇玉登……神皇帝の座を狙うおれの義弟だ」 見た目は十五歳にも満たない少年だというのに、九十九も木陰も手出しできずに見ていることしかできずにいる。だが、それは土地神である那沙も同じだ。 ――彼には鬼神が憑いている。 那沙は初めて見た第七皇子玉登の背後に冥穴よりやってきた幽鬼の王の影を見て戦慄する。神々を誰よりも憎み人間を玩具のようにしか考えていない異形の主、鬼神。彼もまた珊瑚蓮の蕾に魅せられかの国へ誘われたのだろう……罪を犯したオリヴィエに加担するかのように。 冥穴を出た鬼神は実体を持たない。それゆえ彼は自分のすきな悪感情に溺れた人間を虜にしてそのなかに入り込む。人間が幽鬼になる現象の多くが鬼神によるものだ。きっとオリヴィエによって幽鬼となった仙哉も鬼神の器とするために利用されたのだろう。だが、目の前の玉登は、自らすすんで鬼神の器になっているようだ。自我を保ち、欲望のために鬼神とともにいる……それゆえ、那沙は混乱する。なぜ、こんな小さな少年が鬼神とともに行動しているのか。「なぜって? 国を奪われながらも土地神としてのうのうと生き延びている貴女にはわからないでしょうね、ぼくの屈辱と憎悪の激しさが」 自分と同じくらいの年齢の容姿になっている那沙に視線をやり、玉登は不機嫌そうにまくしたてる。その姿は癇癪を起した子どもだが、言っていることは復讐に燃える皇子の罵倒。那沙はかつて起きた内乱で死んだ悲劇の皇妃を
* * * かの国に軍隊と呼ばれる組織は存在していない。四方を海に囲まれ、古代より神々と幽鬼が戦いつづけた影響からか、大陸諸国はかの国を敬遠し、攻め込んでくることがなかったからだ。皇族個人が兵を集めることはあるが、基本的に内乱を治めるための一時的な処置にすぎない。 だが逆に、幽鬼との戦いのために神術を用いた防御は徹底されている。地方ごとに神殿が建てられ、土地神とともに神職者が悪しきモノの侵入を阻むよう常に結界は張られ、かの国の民は安心して生活を送れるようになっている。 しかし今、この概念がたったひとりの女性のせいで見事に覆されそうになっている。「秘色香椎神殿を奪われただと!」 瘴気をまとった幽鬼となった義理の兄、仙哉を連れて現れた人魚の女王オリヴィエは、道花たちを襲った後、神殿を占拠していた。 神殿には神術を修めた狗養一族の『狗』が多数いる。だが、仙哉が傷を負った時点で彼らもまた血の呪いによって動きを制約されている可能性が高い。そこを狙われたのだとすれば、自分の判断が甘かったと言わざるおえない。 九十九が沈痛な表情になったのを見て、道花も苦しそうに言葉を発する。「神殿を占拠されたって……」「結界を壊されたらかの国へ幽鬼が押し寄せてくる。鬼神は最初からこうなることを考えていたのか……」 至高神を敵対視する鬼神。彼が女王とともに行動していた理由を推理し、九十九はひとりでうんうん頷いている。「ハクト?」「切り札はまだこっちにある――だから。マジュ」 呼びなれない名で道花を束縛する九十九に、道花が怪訝そうな表情を浮かべると、困ったように那沙が彼女の頬をつつく。「もう想いは通じあっているんでしょう? あなたは珊瑚蓮の精霊で、海に誓う真珠……琥珀とともに輝ける桜真珠になるの」「――那沙。やっぱりそういうことだったんだね」 道花は頬を赤らめ、観念したとばかりに言葉を紡ぐ。「あたしとハクトが契りあうことで桜色
「……ナターシャさまが知らなかったこと」 カイジールがぽつりと呟くと、至高神は満足そうに頷く。「さよう。国神であるはずの彼女は、異形どもに国を支配されていたのさ。国が生まれたときから、何も知らされず、ずっと」 だからセイレーンは三年前に一度滅びたのだと至高神はいまさらのように笑う。「異形である人魚は冥穴の瘴気を帯びれば幽鬼のように悪しきモノになる確率が高い。母なる海神はだから珊瑚蓮の大樹が必要なのだと妾に教えてくれた。黒い花だろうが桜色の花だろうが、数百年に一度、人魚の一族の頂点に立つ女王を、珊瑚蓮の精霊だけが殺すことができるのだから、と」 海神はいつか人魚が幽鬼のように人間に対して悪さをすると予知していたから、珊瑚蓮をセイレーンに創りだしたのか? いや、そもそも創造神が海神と夫婦神となってこの箱庭を生みだした頃からそこに大樹は在ったともいわれている……きっと、海神はその地に珊瑚蓮が在ったから、ナターシャを生み落とした後、人魚に任せて姿を消したのだろう。 カイジールが心のなかで納得しているのを確認してから、至高神は顔を曇らせる。「だがの。珊瑚蓮の精霊はいつどこでどんな風に生まれるか神にも知り得ぬことなのじゃ」 だから妾も驚いておると零し、至高神は彼女の名を口ずさむ――神々が呼ぶ真名を。「あれはまことに未知なる花じゃ。まさか人魚の女王の胎から生まれることになったとは」 娘が母親を殺さなくてはならない運命。 それを至高神は嘆いている。 けれどカイジールはそれを黙って聞いていることしかできない。「妾ですら、どうすることはできぬ」 天空を統べる至高神でさえ、世界樹が定めた事象を覆すことは不可能なのだと、弱々しく言葉が告げられる。「……道花」 女王オリヴィエは珊瑚蓮の精霊である娘に殺されまいと、娘を殺すことに執念を燃やしている。けれど道花はどうだろう。
「オリヴィエの義弟」 至高神は考え込む仕草をした後、カイジールに呼びかける。冥穴より生じた異形でありながらこの世界の海に生きることを許された一族は、海神の加護を受け、セイレーンを守護する国神を補佐する役目を与えられた稀有な一族。そのなかで選ばれたのがオリヴィエという名の女性だ。「そう呼ばれることには、慣れていません」 カイジールが否定すると、至高神はくすくす笑う。たしかに、彼は海神の加護を持たない冥穴で生きる人魚の一族に棄てられた迷子だ。同じ生粋の人魚だからとオリヴィエの両親に拾われ、自分たちの子どもとして養育された事実はあれど、海神の加護をその身に受けることが叶わない。だから彼は道花のように神殿で学ぶことを選び、知識を蓄えることで彼らに応えようとしたのだ。「たしかに、どのくらい年が離れておるかわからんから、姉弟と呼ぶのは難しいのぉ」 オリヴィエの実年齢を至高神も覚えていない。不老長寿である人魚は性別を変えることができ、滅多なことで生殖行為はしないため個体数の変化は殆ど存在しない。海神が人魚の一族にナターシャの補佐を命じたとき、その頂点にいたのがオリヴィエという名の人魚だったから、それ以来女王の座につく人魚にはオリヴィエという名が引き継がされている。 なぜ人魚の女王にオリヴィエという名を冠したのかと母なる海神に問えば、彼女は至高神を諭すように告げたのだ。 ――オリヴィエという名の女王がいる限り、セイレーンが滅びることがないからだ。 父なる創造神が世界を構築し終え、姿を消した際に後を追うように消えた海神。彼女は末子であるナターシャを独り立ちさせる間もなく儚くなってしまった。だから海に生きる人魚の一族を重用したのだろうと至高神は考えていた。けれど、それだけではなかった。「そなたはいまのオリヴィエが何代目か知らぬだろう? オリヴィエという名の人魚はセイレーンが生まれてから三人いた。いまのオリヴィエは四代目じゃ」「……何をおっしゃりたいのですか」 カイジールを養育してくれた両親にオリヴィエという名の女性はいなかった。だと